なかとそと

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雨宮まみ『女子をこじらせて』

業火に焼かれていた20代の頃は、タイトルや評判だけでもうヒリヒリ痛くて読めなかった。

若い女というだけで見下されることに怒りを感じる一方で、ずば抜けた容姿もスタイルも、実績もお金もなく、それに甘んじるくらいしか価値がない自分に苦しんでいたあの頃。

30歳を超えた今は、だいぶ落ち着いて読めた。

といいたいけどやっぱり落ち着かない気持ちがあって、というか今だからこそより切実にこじらせている部分もあって、保険をかけるように雨宮まみの言葉を拾い集めたというのが本音だ。

言葉遣いはフランクで自虐ちっくで面白くしてくれているけど、淡々と文章を重ねながら自分を分析して核心へと近づいていく描写は、生々しくて痛くて苦しくて、だから説得力がある。

当たり前だとされていて、考えたこともない人もいるような「女であること」という根源的な悩みに体当たりで挑み続けた彼女が、ようやく掴み取った答えだから胸に突き刺さるのだ。

ー「女」であっても、私は私です。「私」には「女」は必ずついてくる。そのことをポジティブに受け入れようと思ったら、怖かったけど目の前が明るくなった。おおげさですが、希望が見えました。(本文より抜粋)

女であること、もっというと自分が世間一般で愛される女とは違う女であることにコンプレックスを感じ続けてきた雨宮まみが、弱点を認め、受け入れて、希望を見出していく姿に同じ女として勇気づけられないわけがない。いや、もはや性別とかこじらせとか関係なく、人間として励まされる。

教科書的に用意された答えだけじゃ、自分の性と生の謎は解き明かせない。

だから悩んで、もがいて苦しんで、自分を傷つけたり周囲に迷惑をかけたりしながら、すこしずつ私だけの真理に近づいていくしかない。

雨宮まみの本を読むと、そうやって闘っているのは私だけじゃないんだと安心する。闘い続ける気力が湧いてくる。

20代にこじらせ街道を超スピードで爆走して、30代になっても時々こじらせ街道に迷い込んでしまう自分からすると、しみじみ助かるのだ。

ーこじらせている女子全員に言いたいことは、私の屍を越えていってくれ、ということです。(あとがきより抜粋)

越えていけてるかはわからないけど、この本は世代を超えて世の女子たちを勇気づけてくれるかけがえのない作品だと思うよ。

ストーナーを読んで

細かいディテールの話が好きだ。

ディテールにこそ、その人をその人たらしめる要素や人生のドラマが詰め込まれていて、世界に唯一しかない生を生きているという事実が身に迫って、そんな話を共有してくれる相手に慈しみと敬意を深く、深く感じる。

当たり障りのない、感情の起伏や議論の巻き起こらない会話、趣味や仕事に関するラベルをつけるような会話からは、相手のことがたいして伝わってこない。あなたにしかない言葉で、あなたにしかない体験を話してくれたら、と常々願っている。

私が人と話すのも本を読むのも、飲み屋で酒を飲みすぎるのも、そういうミクロな世界に触れるためかもしれないと思う。ただ、ディテールはごく個人的な内容になることがあるので、滅多に周囲へ話すものではない、と考える人もいる。少なくとも、私のような相手に話しても得がないとする人もいる。ある意味で、私の願いは非常にわがままで独りよがりで、共感する人の方が多くないかもしれない。それを、そりゃそうだよな、と冷静に見る自分ももちろん存在する。

でも、この世界で、たった一度の人生で、あなたと出会ったのだから、あなただけの物語を知りたいと思うのはわがままなんだろうか。独りよがりなんだろうか。

私はあなたを知りたいし、あなたに知って欲しいと、どうしても焦がれてしまう瞬間が時折やってくる。

ストーナーは、そんな矛盾と葛藤するこころにすんなりフィットして、慰められるような癒されるような作品だった。年月を超えて何度でも読み返すうちに、未熟で揺れ動くこころがどこかに着地する日が来るのかもしれないと思う。

12月のこと

12月、知人が亡くなったことをきっかけに、本当にもう、どうしようもなく、転落し続けてしまった。

常に辛い、苦しい気持ちがある一方で、人に話せないようなしょうもない感情だという自覚もあって、うまく吐き出せないまま、酒を飲みすぎて周囲に迷惑をかけ、さらに自己嫌悪に陥り、落ち込んだ心でまた酒を飲む、というような負のループにずっといる。お休みに入ったので実害は減ったけど、今もまだ同居人に隠れて風呂場でこっそり氷結を飲むなどしている。

常にうっすらある死にたい気持ちを、今までどうコントロールしていたのか、思い出せないし、今はなにも考えられない。

飲み屋で笑い話みたいにして、みんなに笑ってもらったら昇華できるかなと思って、ベラベラ喋って、当然だけど単に私のヤバさが露呈しただけに終わって、それでも心配してくれたり優しくしてくれたりする人はいて、本当に本当に申し訳なかった。気分を害するようなしょうもない話をしてしまったのが申し訳なさすぎて、いい歳してこんな自分が恥ずかしくて、ますます死にたさは募った。

同居人は、一番近い他人として厳しいことを言ってくれて、感謝すべきなんだけど、言葉が鋭利すぎて今の自分にはただ辛い。自分がダメすぎて苦しいのに、そばにいる人にダメな自分を見せていると思うと、さらに辛い。しかも酒を飲んでベロベロに酔って帰ってくるから、相手からしたらぜんぜん元気にみえるみたいだ。

それはある意味真実で、辛いとか苦しいとか言いながら、恥をさらしながら、迷惑かけながら生きている私は、結局元気なんだと思う。すべてのことが自業自得で、私は自分の業を抱えて、抱え続けて生きなきゃいけない。

この12月にかけた迷惑や受け取った優しさを、いつかどこかでちゃんと相手に返せるよう、お休みの間に休息をとって、年が明けたら方々へ謝罪し、感謝して、安定した自分を取り戻したい。少なくとも、自分1人で完結できる自分であれるように。

年が明けるだけで、何もかも生まれ変わったみたいに新しい気持ちになれるのは日本人の特権だと思っている。でも、こんなにすがるように来年に希望を見出すのは、初めてかもしれない。実際には仕事も環境も人間関係も変わらず、過去にした失敗が無くなるわけでもなく、これまで通りの日常が続くだけにしても。

雨宮まみ『40歳がくる!』に寄せて

雨宮まみの『40歳がくる!』を拝読。ここ最近あった個人的な出来事が一気にストンと落ちてきたので、忘れないうちに書き留めます。

年末、10年来の知り合いを立て続けに亡くして、身近で人の生き死にを感じるのが初めてだったこともあり、心身ともに不安定になっていた。浴びるように酒を飲んだり本を読んだり、終わらない毎日をなんとかやり過ごすなかで、つい誰かに辛さや悲しみをわかってほしくてたまらなくなって、たまたま出会った人にこの人ならわかってくれるかもしれないと勝手に期待して、盲目的に突っ走って光の速さで失望した、という出来事があった。

あまりにもありふれすぎていて、いい歳して本当に情け無くて、笑い話としてネタにすらできないようなしょうもない出来事で、ただ相手にわかってもらえなかったことに傷ついて悲しんだり腹を立てたりしていたんだけど、私は私の選択の責任を取ろうと思ってこうなったわけで、そもそも私の歪んだ認知や業が原因なので、自傷行為に人を巻き込んだみたいなもんだよな、と考え直した。自分の罪と罰だよな、と。この考えに至るまで、なんかいも泣きたくなったけど、泣かなかったし、泣けなかった。全然泣くようなことじゃなかった。

自分の辛いとか悲しいとかを他人にわかってもらおうとしていたのは私も相手も同じで、だから最初から慰め合うことは不可能。それぞれがそれぞれしかわからない感情を持っていて、お互いに利用しあっただけのこと。出来事そのものには、なんの意味もない。

けど、出来事から私は、自分の中に隠れていた罪悪感や劣等感、反対に生への執着を感じたりしたので、結果よかったんだろうなと納得している。出来事そのものはしょうもなく、相手には申し訳ないけど、出来事を振り返って、消化して、糧にできる私には、大きな大きな意味がある。

傷だらけになって倒れて、人生がどうしようもなくなっても、私を生かせるのは私だけで、私の辛さや悲しみも私だけのもので、誰にもわかるわけなんてない。というか、私以外の他人にわからせてなんかやらない。それに絶望するときもあるけど、少なくともいまは希望だ。同じような失敗をなんどでも繰り返して、そのたび辛くて悲しくて喚きたくなって、でも実際はそんなことできないから酒を飲みすぎたり意味のない言動をしたりして静かに狂ってごまかして、また生きていく。そう、そういうふうに毎日を生き延びていく。

私は、私自身に、ちゃんとなれるんだろうか。

そんな不安を抱えながら、生きてゆく。と記した雨宮まみの言葉に心が震えて、ここ最近苦しみながらも私を私としてなんとか成り立たせてきた自分をものすごく愛しく感じた。図々しく生きようとする自分を恥じずに、受け入れようと思えた。生きる気力を奮い立たせてもらえた気がした。

生きてゆく。私はまだまだこれからもずっと。ままならない自分に、人生に絶望しながらでも、やり過ごしながらでも、毎日を続けていく。

あのこは貴族を読んで〜軽くネタバレあります〜

島根の片田舎で生まれた私は、とにかく田舎が嫌で嫌で、ものごころついたころには東京に行きたいと思っていた。

東京への思いを胸に中〜高校時代を過ごし、実際に東京の私大を受験。第一志望はあっけなく落ちたが、幸に明治と青学に合格した。

キリスト教でもないのにチャペルに憧れがあった私は(いかにも田舎もの……)断然青学だわ!と思っていた。が、「青学にいくような輩とオマエが仲良くなれるはずがない」と父が一刀両断。消去法で若干渋々明治に入学した…過去をもつ女である。

そんなもんだから、わたしは断然美紀に感情移入してしまった。

ダサい自分と母親の姿に、とにかく劣等感でいっぱいだった入学式…

電車に乗って学校に行くだけで精一杯な私を、スイスイ追い越していく見知らぬ人たち…

ハイブランドのバックをもつモデルの他学部生や、物おじせず流暢な英語を話す同級生…

心の底から「スタートが違う」と思ったものだった。

一方で、東京出身にもかかわらず、案外地味な女の子がいることにも驚いた。

彼女らは一様にやさしく、おっとりしていて控えめで、私みたいな田舎者とも分け隔てなく付き合ってくれた。

醜い話だが、都会に染まろうとおしゃれやメイクを頑張っている私よりダサいのでは…なんて思ってたのも事実だ。

でも、彼女たちには余裕があった。

田舎育ちで、東京に馴染もうとあくせくしている私にはない余裕だった。

 

『あのこは貴族』を読んで、東京の外からやってきたあの頃のことを、胸が痛くなるほど鮮明に思い出した。

圧倒的な美紀側の私は、どう頑張っても、最初からもっている華子の方を有利に感じてしまう。華子が悩む気持ちは否定しないし、存在自体が悪だと思ったりはしない。

ただ、ただ、単純に、最初からもっている人なのだ。

それは越えようがなく、どうしようもないことだけど、もってない側からすると、羨ましく感じてしまうのはどうしようもない。

その「どうしようもなさ」を乗り越えようと、もがいていたあの頃の自分を思い出して泣ける。そして「どうしようもなさ」を乗り越えてきたいまの自分を愛おしく感じてさらに泣けるのでした。


しかしこの感想、圧倒的に自分が美紀側になってしまうのは、ラストにも問題あると思うぞ!

華子が自分の足で進みはじめたのは素晴らしいことだけど、結局友達=コネじゃん!と思ってしまったよ……

でも、それがまたリアルな感じでもあるのですが。

山内マリコ氏の他の作品も読んでみようと思います!

川上未映子『夏物語』傑作すぎたので感想

『夏物語』は、結婚や出産、セックス、そして生死まで…。
なぜするのか?多くの女性が、考える暇もなく通り過ぎる人生の出来事を取り扱っている。

登場するのは、みな違う考えをもち、悩みながらも自分の頭と体で生きている女性ばかり。
毎日に向き合い、進んでいく彼女たちを追ううちに、当たり前に溶け込んでいた感情が急激に輪郭をもちはじめる。

驚くのは、女に生まれた人間として、私自身が確実に知っている感情を引きずり出されることだ。

父や母、家族に対して、恋人に対して、男性全般に対して、社会に対して。
自分以外の存在を前にしたとき、ふと目をそらしたりあきらめたりしてしまう違和感や嫌悪感。

自分では見逃してしまっていた暗く深い意識に沈んだ感情を、夏物語はやさしく掬い取ってくれる。
そして、その感情がいかに自分にとって大切なものだったかを思い出させてくれるのだ。

この作品と出会わなければ、もしかして気づかなかったかもしれない、小さな小さな感情。
読む人によって、希望だったり勇気だったり癒しだったりするそれらは、確実に私たちの背中を押してくれる。

性や人間、生死など、文学が目をそらしてはいけないテーマに、真摯に誠実に、丁寧に向き合ってきた著者だからこそ生まれた傑作だ。

 

もともと川上未映子氏は大好きなのだが、改めて私ゃアンタについていくよ!という気分になった。

次回作も非常に楽しみ。