なかとそと

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『国宝』すごい今更だけど取り急ぎ感動を放出したい

唯一のことに魅せられ、選ばれた人間の悲哀。たったひとつ、芸を得るためだけに、どれだけ大切な物を奪われ続けてきたのか。誰よりも失っているのに、誰もに羨まれ、憎まれ、理解されない孤独を抱える喜久雄(吉沢亮)に涙が止まらなかった。

一方で、彼は奪われたわけじゃなくて、自分から芸以外のすべてを捨てているとも捉えられる。

選ばれた人間は、やりたいか、やりたくないか。幸せか、不幸せか。そんな尺度を超えて、目の前の道を突き進んでいくしかない。

すべてを振り切って芸に邁進していく姿は、美しく、恐ろしい。最初は周囲を惹きつけるが、次第に離れていってしまう。なのに本人は逃げられない孤独。

芸に選ばれた人間の深い深い業を抱えて生き抜いた喜久雄が最後にみた景色は、彼にしか辿り着けなかった、誰とも分かち合えない境地にあるんだろう。

選ばれた人間が送る人生の輝きと残酷さが、途方もない熱量で描かれていて心が震えた。

 

壮大で運命としか言いようがないマクロの世界に巻き込まれる、個人のミクロのストーリーをここまで描き込まれた映画ってなかなか観たことないかもしれない。

いや、もう本当に語彙がなくて申し訳ないけど、すっげぇ。周りに何回も観たって言ってる人が結構いて、へぇ〜って思ってたけど、これは何回も観たいし、劇場で観たい。折をみて再鑑賞します。

想像力の限界とそれでも残る希望『スクラップ・ヘブン』を2回観て

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20代前半の頃、「若くて無知で無力な女の子」である自分に憤りを感じていた。

知識も経験も乏しく、ずば抜けた才能も能力もなく、体力も気力も容姿も十人並。にも関わらず、傲慢で自意識過剰で、プライドが高かった私は、「若さ」しか武器にできない(そもそも上手く使いこなせない)ことがたまらなくしんどかった。

しかも、新卒入社した会社を1年で辞めてフリーターになり、大好きな本や酒、人に関わる仕事ができて充足しているはずなのに、側から見たら自分が不幸に見えるんじゃないかとどこか怯えていた。

会社員として働いている友人は、着々と成果を積み上げ、お給料も安定していて土日祝はお休み、恋愛やオシャレに忙しい。対して私は、週6日働いてるのに実績もお金もなく、メイクや洋服は二の次、ただただ酒を飲んで本を読む生活をしている。自分で選んだ道で満足していたけど、密かにコンプレックスを感じていたんだと思う。

 

そんなとき、働いていた飲み屋の常連さんが想像力の話をしてくれた。具体的な内容は思い出せないんだけど、そのときの私は「いまの悩みって想像力があればぜーんぶ解決できるじゃん!」と謎回路でもんのすごく納得。

知識も経験も才能も能力もないけど、想像力があれば、若さ以外の武器をいくらでも持てる!!!

側から不幸に見えるのは想像力が足りないだけで、私から見て幸福に見える人が不幸かもしれないように、不幸に見える私が幸福でも何もおかしくない!!!と脳内がスパークしたのを覚えている。

私は常連さんの話から、「想像力」を「現実を違う角度から見ること」に結びつけて、当時のモヤモヤを晴らしたのだった。その話を聞いてすぐSNSのプロフィールに「想像力」と書き残す(ちなみにLINEは今もそのまま)くらいには嬉しい衝撃だったみたいだ。

それから想像力は、コンプレックスだらけだった20代の私にとって希望になった。想像力があれば、何だってできるし、何にだってなれる。自分を嫌いにならずに生きてこれたのは、コンプレックスを想像力で補うことを覚えたおかげもあると思う。

 

一般的に年齢を重ね、知識を得て経験を積むうちに、足りないものを想像力で補う必要は無くなっていく。また、生活や仕事に追われたり、守るべき大切なものや人ができたりして、想像していられなくなることもあるだろう。

実際に私も30歳を過ぎてから、想像力の存在がだんだん薄れていったし、何ならほとんど忘れていた。20代の頃はあんなに想像力に縋っていたのに、薄情なもんだよね。

 

『スクラップ・ヘブン』を観ようと思ったのは、劇中でテツ(オダギリジョー)が放つ「世の中、想像力が足んねぇんだよ」という台詞から、あの頃の自分を思い出したからだ。

警察官なのにデスクワークばかりで正義感を持て余していたシンゴ(加瀬亮)が、破天荒で刹那的、自分にはない行動力を持つテツの言葉に共感したことから、2人の復讐代行ゲームは幕を開ける。

想像した先に何があるかなんてわからないのに、盲目的に信じて突き進んでいけるのは若さゆえなのか。さまざまな依頼を引き受け、想像の赴くまま実行していく2人の姿に、想像力に縋るように希望を見出して、信じ切っていた自分が重なった。

だけど、想像力には限界がある。気付けば、日常の憂さ晴らしだったはずの復讐代行が、想像もしていなかった方向へ進んでいく。

想像力を自分勝手に過信したシンゴは、自分が起こした事件がどんどん波及して止められなくなる様子におののき、立ちすくむ。誰かを救おうとしたはずなのに、友人や好きな人さえ救えないどころか、周囲を傷つけ損なわせ、取り返しのつかない状況になり、無力な自分を突きつけられる。

希望だったはずの想像力が凶器になる。想像力が足りない世の中に怒っていたはずのに、自分の想像力が足りていなかったという特大ブーメランだ。

 

シンゴのラストシーンは、無責任な想像が引き起こした結果を、生きて引き受けるしかない絶望と、生き延びた安堵が混ざりあう。頭の中では世の中を変えたいと思っているのに、結局は小心者で他人任せで、自分の行動に責任を持ちきれない、情け無くて人間らしいシンゴだからこその結末だと思った。

ラストの余韻を残した状態で流れるエンディング、フジファブリックの蜃気楼。静かで美しい不安定な旋律と、志村のどこが気怠く揺らめくような歌声、世界への絶望と希望が詰まった歌詞が、たまらなくいい。このラストシーンとエンディングのために2回観たと言っても過言ではないくらい、しみじみいい。

 

20代の頃の私は、彼らと同じように「想像力があれば何だってできる」と本気で思っていた。だけど今は、想像力に限界があることも、自分の想像の及ぶ範囲が狭いことも知っている。

想像だけで世の中は変えられないし、行動しないと誰も救えない。だけど、自分の考えや行動を疑い、軌道修正するための原動力にはできる。

想像して、考えて、行動して、失敗して、また想像して。それを繰り返すことで、人は少しずつ変われるのかもしれない。

年齢や経験を重ねて若さを失い、想像力が万能でないことを知った今の私だからこそ、あの頃とは少し違う形の希望を胸に、これからも想像し続けていたい。

朴沙羅『ヘルシンキ 生活の練習』新しい環境で自分らしく生きる知恵

最近、地方都市へ移住し、新しい環境や人間関係に馴染もうと必死になっていた。

周りに好かれようと無意識に無理をするなかで、他人のちょっとした態度や発言を気にしすぎるようになり、最終的に「自分が駄目だから上手く関係を築けない」と人格を否定する段階まで落ち込んでいた。

もともと私は、仕事で詰められたり人から攻撃されたりすると自分を責めがちなタイプで、年齢を重ねて徐々に切り分けられるようになってきてはいたものの、環境が変わったり精神的に不安定だったりするとやっぱり悪い癖が出てしまう。

しかも、嫌われないよう周囲に合わせて行動しているうちに、だんだん自分が本当に好きなことや楽しいことがわからなくなってしまった。

 

そんなときにこの本を読んで、個人ではなく、状況やシステムといった問題自体に焦点を当てるフィンランド(の幼児教育)の姿勢に救われた。さらに、問題を解決するためのスキルは何歳になっても練習して伸ばしていけるらしい。

 

(本文より抜粋)

先生方が子どもを褒めたり叱ったりするとき、それはその子の人格を褒めたり貶したりしているわけではなく、その場の状況や問題に焦点を当ててそこを褒めたり変えようとしたりしている。

(中略)

そもそもあの先生たちは「いいところ」対「悪いところ」という発想をとっていないのだ。「練習が足りていること」と「練習が足りていないこと」があるだけだ。

 

人間関係や仕事が上手くいかない理由をすべて自分の人格に結びつけなくていい。それより状況を観察して、解決するためのスキルを身につければいいんだ、と目から鱗だった。

また、人間関係に主軸を置いていないフィンランドの姿勢にも励まされた。あくまで自分が第一。自分のやりたいことが先にあって、その後に人がついてくる。

 

(本文より抜粋)

一番大切なのは何をやるかで、誰と一緒にやるかというのは二番目に大事。自分のやりたいことを自分がやる、その気持ちを同じくする人とやるから楽しい。

 

コミュニティに馴染もうとして自分を見失っていた私に、この言葉は強く響いた。周囲に合わせて自分が無くなるほど、人からの評価や反応に振り回されてしまう。大切なのは自分が何をしたいのか。その延長線上に友達や仲間が生まれるんだなぁ。

 

フィンランドへ移住した著者と、国内で移住した私とではスケールも状況もまったく違う。でも、新しい環境で自分を軸にした生活をどう作っていくか、自分を見失わずにどう生きるかという悩みは共通しているように感じた。

新しい環境のなかで自分らしく生きるための知恵が詰まっていて、今の自分に驚くほどしっくりきた一冊だった。

早朝の神社で泣いて思い出した自分が酒を飲む理由

東京から地方都市へ移住して4か月目にして学んだこと。

それは、「新しい環境に飛び込むときは、少し性格が悪いくらいがちょうどいい」ということだ。

 

移住したのは夫の地元で、私には何の縁もゆかりもない土地。当然知り合いはまったくおらず、職場も地元の中堅企業のせいかコンプラが厳しく「髪切った?」すらセクハラになるレベルなので雑談がほぼ生まれず、友達ができる雰囲気は皆無。

職場での人間関係は諦めたものの、もともと私は酒好きで人間好き、夫以外のコミュニティが欲しいタイプで、東京では割と友達と呼べる人が沢山いた。とくに酒場での会話でストレスを発散したり満足感を得たりすることが多かったので、新しい土地で友達を作る方法として近所の飲み屋を開拓することにした。

間違えてワイガヤ系居酒屋に入ってしまい、楽しそうに飲む人々を横目に孤独にハイボールを煽ったり、ここはイケそうだと思った立ち飲みのビアバーでまったく話が膨らまず、気まずくてクラフトビールを3杯ガブ飲みして退散したりと失敗を重ねながら、遂に「店主(スタッフ)およびお客さんと会話が弾み、常連になれそうなカウンターバー」と出会えたときの喜びはひとしおだった。

その店を起点に他の店にも足を運ぶようになり、とりあえず行ったら認識してもらえる程度の店が何店舗かできてきた。

私は平日は飲まないので、平日を”ケ”と認定し、そのぶん週末の”ハレ”に浴びるほど酒を飲む生活がしばらく続いた。金土と連続で飲みに行ったり朝まで飲み明かしたり、なんとなく楽しい気がしていたが、基本的に記憶は曖昧で、週末でリズムが崩れることによる疲労とみるみる減っていく貯金、それに伴う罪悪感がだんだん膨らんできた。

そもそも私は移住と同時に転職しており、給与が年俸制から月給制に変わったため、自由に使えるお金が激減していた。その少ないお金では当然足りないのだが、移住によるストレスや寂しさを埋めるために、飲酒以外にも外食や美容グッズ、洋服などで散財しまくっていたので、近年見たことのない貯金額まで目減りした。

さらに、時間が経つにつれて、なんとなく関係が積み上がっていない気がして焦ってもいた。最初の頃は、「地元のいいところ」「おすすめの店」など無難ながら割と盛り上がりやすい話題があったが、だんだん日常になってくると何を話せばいいのかわからない。自分なりに切り込んだり、開示したりしているつもりだけど、なかなか深い話に至らず、漠然と満たされない気持ちを抱えていた。

 

そんな矢先、たまたま店のスタッフとライブへ行くことになり、「いよいよ友達になれてきたかな」なんてホクホクしながら一緒に鑑賞。

そこまではよかったのだが、終演後トイレに行ったあと合流したら、飲み屋つながりのコミュニティが大集合。総勢十数名くらいの小宇宙が爆誕していて驚愕した。

みんな数人単位でワイワイ話しているなか、気を遣って声をかけてくれたり紹介してもらったりしたものの、そもそも大人数が苦手な私は一気に怖気付いてしまい、何もフックを作れず。

輪の中には一応入れるし、会話もできるけど、うまく馴染めない感がいなめなくて、自分がいたたまれなかった。

その後、分裂したり結合したりする集団と朝4時くらいまで飲んで、最中ずっと私は存在感なく浮いてて寂しさ倍増。誰とも繋がれた感じがしないまま終了。

コミュニティにぶちのめされて心が折れた私は、帰り道、誰もいない神社の境内で咽び泣いたのでした。

 

最初は、「私が変だからだ」「馴染めない私が悪い」「もっと上手く話せれば」と落ち込んでいたのだけど、ふとこの4ヶ月間を振り返って発覚した衝撃の事実。

これまで金も時間も気力も搾り出して飲み屋コミュニティに挑んできたけど、心から「好き」「仲良くなりたい」と思った人は1人もいなかった。

 

………。

そもそも私は、人の解像度が上がる瞬間が好きでお酒を飲むところがあり、その人が愛しているカルチャー(趣味が合えばさらに嬉しい)や日々の出来事、過去の経験、そしてその人からしか生まれない物語や思想、感情に触れたいと常々思って飲み屋に通っていたのだった。

だから、たとえ知らない話題でも、「どんな内容なのか」「なぜ好きなのか」一歩踏み込んで会話をするのが通例だったし、それに応えてくれる相手と友達になってきたんだな、と。

でも今のコミュニティは内輪意識が強くて、会話が共通の知人やイベント中心で、個人の価値観や感情みたいな深い話ができなかった。そして、音楽も映画も本も趣味が合わず、投下しても話題が広がらない。

それに違和感を抱きつつも「ノリでイケる」「時間が経てば馴染める」と自分を過信した私は、とりあえずいい客になろうとして、周囲に気を配って、金もないのに散財し、ダラダラ朝まで飲んで記憶を無くし、コミュニティに適応しようとしてた。

 

結果、消耗。

しかも、東京で積み重ねてきた自分が機能してなくて、価値が出せなくて、自信喪失。最後には「自分が悪い」と絶望して、神社で咽び泣く始末。

 

でも今回の件をきっかけに、全員に好かれようとし過ぎて、何が好きで、何が楽しいのか見失っていた自分にようやく気が付いた。

新しい環境や状況だと、つい周囲を優先して自分の感覚を無視しがちだけど、好きなもんは好き、嫌いなもんは嫌いで、受容だけじゃなく排他もしていかないと自分がどんどん無くなってつまらなくなるんだな。と発見だった。

だから多分、新しい環境に飛び込むときは、少し性格が悪いくらいがちょうどいい。(というかきっと常にそう)

私は相手に好かれたくていい人を演じてしまうところがあるので、「苦手」「違う」に正直になって、周囲と距離をとる勇気を持たねば、と自分を奮い立たせている。もはや「全員皆殺しにしてやる」くらいの強い気持ちで、好き嫌いを貫いた方がいいのかもしれない。

移住して4か月目にして友達作りは振り出しに戻ったわけだけど、自分が何を好きで、何を求めて酒を飲んできたのかを思い出せた。そして私がやりたかったのは、自分の心が動く相手と対話を重ねて、お互いに開示し合える関係を築くことなんだと気が付けた。

だからこれからはまず、誰かに好かれるためじゃなく、誰かを好きになるために飲みに行こうと思う。

 

なお、最後に補足。今回の件は私が合わない場に執着してしまっただけで、地方やコミュニティの方々はまったく悪くない。むしろ私のような異分子が混じってくるのを手放しで喜ぶ人ばかりじゃなかっただろうに、皆さん一様に優しく受け入れてもらって感謝しかないです。あしからず。

國分功一郎『暇と退屈の倫理学』豊かになることと豊かに生きること

「わたしたちはパンだけでなく、バラも求めよう。生きることはバラで飾られねばならない。」

 

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新卒で入った会社を辞めて、広島から東京へ戻ったとき、帯文に惹かれて買った一冊。


12年前に読んだときは、「暇と退屈」そのものより、「労働」に関する記述が印象に残っていた

社会で働きはじめて労働の大変さを知り、「こんなに大変なら、好きな場所で好きなことをした方がいい」と思って、東京に出戻り。

当時は、週6で本屋と飲み屋バイトを掛け持ちして働いていた。

嫌なことや腹立たしいこともあったけど、好きな仕事だからお給料が低くても受け入れられてたし、お金も時間もないけど、上限があるなかで欲しい本を厳選して買ったり、少ないお金を数えて飲みに行ったり、小さな浪費を楽しんでいた。

今振り返ると、この本で言う「新しい階級」として労働を楽しみ、小さな「贅沢」で満たされていて、いわゆる「バラで飾る」が自然にできていたんだと思う。


20代の終わり頃から、お金があれば余暇がより自由になると思って、急に仕事に打ち込みはじめた。

正社員に転職して、残業をいとわず働き、意欲的に業務を引き受け、上司のお酒に付き合い、プライベートでもビジネス書や技術書を読んで勉強。

頑張った甲斐あって、だんだんお給料が上がって、生活も安定してきて。昔と比べたら本も洋服も化粧品も自由に買えるようになったし、お金を気にせず飲めることも増えた。

でも、気がついたら大好きだった本や映画、音楽に熱中できなくなっていた。買った本はそのまま積読、映画も集中して見れない、サブスクも溜まっていく一方。

欲しいものは手に入るようになったはずなのに、昔みたいに心が動かなくて、どこか満たされない感覚がずっとあった。

しかも、東京では仕事が忙しくて、友達も沢山いて、毎日が目まぐるしくて。その違和感からずっと目を逸らし続けていた。

 

ただ最近、東京から地方へ移住して環境がガラリと変わった。仕事が楽になって、さらに友達も1人もいないから「暇」に耐えられず、散財したり深酒したりして、でも満たされなくて逆にストレスを溜めこんでいた。

まさに「部屋でじっとしていられないがためにわざわざ自分で不幸を招いている」状態で、この本でいう「退屈」に笑ってしまうほど合致していた。

 

今、このタイミングで「暇と退屈の倫理学」を読み返して、バラを求めていたはずなのに、いつのまにかパンを手に入れることに夢中になっていた自分を明確に突きつけられた。

もちろん仕事に打ち込む時期は必要だったと思うし、そのおかげで昔より美味しいパンを手に入れられるようになったことは事実。そして、当時より経験や知識も積み重ねていて、あの頃にはなかったものも沢山ある。さらに幸いなことに、地方へ移住したことで時間にゆとりを持てるようにもなっている。

だからこれから、年齢を重ねた自分にとっての楽しみや贅沢を、ゆっくり時間をかけて見つけていきたい。

パンの価値もバラの価値も知った今の自分なら、パンを味わいながら、昔より上手に生活をバラで飾れるかもしれないと少し希望を抱いている。


✴︎

あと、最近文庫化したけど、この単行本の装丁がやっぱりいいよね。

雨宮まみ『女子をこじらせて』

業火に焼かれていた20代の頃は、タイトルや評判だけでもうヒリヒリ痛くて読めなかった。

若い女というだけで見下されることに怒りを感じる一方で、ずば抜けた容姿もスタイルも、実績もお金もなく、それに甘んじるくらいしか価値がない自分に苦しんでいたあの頃。

30歳を超えた今は、だいぶ落ち着いて読めた。

といいたいけどやっぱり落ち着かない気持ちがあって、というか今だからこそより切実にこじらせている部分もあって、保険をかけるように雨宮まみの言葉を拾い集めたというのが本音だ。

言葉遣いはフランクで自虐ちっくで面白くしてくれているけど、淡々と文章を重ねながら自分を分析して核心へと近づいていく描写は、生々しくて痛くて苦しくて、だから説得力がある。

当たり前だとされていて、考えたこともない人もいるような「女であること」という根源的な悩みに体当たりで挑み続けた彼女が、ようやく掴み取った答えだから胸に突き刺さるのだ。

ー「女」であっても、私は私です。「私」には「女」は必ずついてくる。そのことをポジティブに受け入れようと思ったら、怖かったけど目の前が明るくなった。おおげさですが、希望が見えました。(本文より抜粋)

女であること、もっというと自分が世間一般で愛される女とは違う女であることにコンプレックスを感じ続けてきた雨宮まみが、弱点を認め、受け入れて、希望を見出していく姿に同じ女として勇気づけられないわけがない。いや、もはや性別とかこじらせとか関係なく、人間として励まされる。

教科書的に用意された答えだけじゃ、自分の性と生の謎は解き明かせない。

だから悩んで、もがいて苦しんで、自分を傷つけたり周囲に迷惑をかけたりしながら、すこしずつ私だけの真理に近づいていくしかない。

雨宮まみの本を読むと、そうやって闘っているのは私だけじゃないんだと安心する。闘い続ける気力が湧いてくる。

20代にこじらせ街道を超スピードで爆走して、30代になっても時々こじらせ街道に迷い込んでしまう自分からすると、しみじみ助かるのだ。

ーこじらせている女子全員に言いたいことは、私の屍を越えていってくれ、ということです。(あとがきより抜粋)

越えていけてるかはわからないけど、この本は世代を超えて世の女子たちを勇気づけてくれるかけがえのない作品だと思うよ。

ストーナーを読んで

細かいディテールの話が好きだ。

ディテールにこそ、その人をその人たらしめる要素や人生のドラマが詰め込まれていて、世界に唯一しかない生を生きているという事実が身に迫って、そんな話を共有してくれる相手に慈しみと敬意を深く、深く感じる。

当たり障りのない、感情の起伏や議論の巻き起こらない会話、趣味や仕事に関するラベルをつけるような会話からは、相手のことがたいして伝わってこない。あなたにしかない言葉で、あなたにしかない体験を話してくれたら、と常々願っている。

私が人と話すのも本を読むのも、飲み屋で酒を飲みすぎるのも、そういうミクロな世界に触れるためかもしれないと思う。ただ、ディテールはごく個人的な内容になることがあるので、滅多に周囲へ話すものではない、と考える人もいる。少なくとも、私のような相手に話しても得がないとする人もいる。ある意味で、私の願いは非常にわがままで独りよがりで、共感する人の方が多くないかもしれない。それを、そりゃそうだよな、と冷静に見る自分ももちろん存在する。

でも、この世界で、たった一度の人生で、あなたと出会ったのだから、あなただけの物語を知りたいと思うのはわがままなんだろうか。独りよがりなんだろうか。

私はあなたを知りたいし、あなたに知って欲しいと、どうしても焦がれてしまう瞬間が時折やってくる。

ストーナーは、そんな矛盾と葛藤するこころにすんなりフィットして、慰められるような癒されるような作品だった。年月を超えて何度でも読み返すうちに、未熟で揺れ動くこころがどこかに着地する日が来るのかもしれないと思う。